2018年02月28日

TAXI関連記事が昨日の静岡新聞朝夕刊に

AI搭載の無人タクシーは、まだまだ課題も多く実験段階ということですが、どこまで行くのでしょうか。これまで主流だったタクシーの車種がコンフォートからJAN TAXIへ

昨日(2/27)の静岡新聞朝刊に
AI(人工知能)搭載の無人タクシーに記者さんが試乗された様子が記事に…








2月26日の東京交通新聞には、AI技術を活用し、タクシーの乗車需要をリアルタイムに予測するシステムの開発競争が激化してきた。東京の大手タクシーグループは、NTTドコモやトヨタ自動車、ソニーなどと独自に手を組み動き出した。という記事がありました。

昨日(2/27)の静岡新聞夕刊の一面に新型タクシーの記事
1967年のからタクシー用車両の生産を続けているトヨタ自動車東日本富士工場で、生産車種が昨年10月に製造が始まった「JAN TAXI」に完全に切り替わった。95年からタクシー専用車として加わったコンフォートは、今年1月に生産を終了/strong>







  


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2018年02月27日

沖縄その6 慰霊の旅 安里教会と9条の碑

安里教会を訪ねて
沖縄の伝統的な赤煉瓦をイメージした屋根のカトリック安里教会
1953年に激戦の後を残す荒廃した丘に木造の小聖堂と司祭館が建てられたのが始まりだそうです。

シスターフランシスカさんとの出会い
初めて安里教会訪ねた私をマリア様のようなやさしい笑顔で迎え入れて下さったのがシスターフランシスカさんです。今回初めて沖縄に来ましたが一番の目的は慰霊の旅であり、旧海軍司令部壕、ひめゆりの塔、平和祈念公園とまわって来たことを話すと「まあ少しお掛けになってお話しましょう。」とおっしゃって下さり、教会の椅子に腰かけシスターは石垣島ご出身でお父様は気象のお仕事をされていていらしたそうですが召集され、ご家族は東京の確か高円寺に疎開、シスターが小学校4年生の時にお父様がガダルカナルで戦死されたそうです。しばらくして東京も危なくなって疎開先を仙台に移され、その直後に東京の疎開先だった場所も空襲でやられ仏壇も何もかも焼かれてしまいお父様のものは何一つ残っていない事など話して下さいました。本当に大変な時代だったのですね。
戦後、お母様と共に洗礼を受けられたことや琉球大学を卒業され教育やカトリックの学校創立などにご尽力されたこと、今の石垣島は埋め立てられて昔とは大きく変わったことや人口の約三分の一が元々の石垣島の人であとは本島等から移り住んだ人だという事など話は尽きず…
「どこに泊まっていらっしゃるの?」と尋ねられ「昨夜はJALシティホテルに…」「あら、国際通りで不発弾が見つかって通行止めになったというニュースを見ましたが大丈夫でしたか?」「それは知りませんでしたがホテルから国際通りを見下ろした時パトカーが何台もいて何か事件でもあったのかと思いました。」不発弾と聞き一気に戦時中を身近に感じました。帰り際、シスターが「私も書きますからあなたもお名前と住所を書いてください。」とおっしゃり「また沖縄にいらしたらぜひ訪ねて下さいね!」と私が見えなくなるまで見送って下さった事が忘れられません。後日、お礼の手紙を出したらお電話を下さいました。初めて行った沖縄でこんな会話をし、いつかまた訪ねることが出来るシスターとのご縁は今回の旅の一番の思い出です。


2015年5月1日の沖縄タイムズの記事に
沖縄に多い「9条の碑」
専門家は、太平洋戦争で唯一の地上戦の経験や米軍施政下に置かれた沖縄では9条への思いが強いとみる。
沖縄では、自治体が碑の建設に携わったり、建設後に碑を管理する事例が多い。他府県では行政が建設や管理に関わっている例は見当たらず、県民と自治体が足並みをそろえて平和を希求した沖縄の歴史の特殊性がうかがえる。(沖縄タイムズより)

沖縄には9条の碑が6ヵ所にあり、全国でも突出して多い。4か所が本島にあり、そのうちの那覇市の与儀公園にある「恒久平和の灯」は、市が沖縄戦終結40年の1985年5月に建設された。その他に読谷村、西原町、南風原町と宮古島市、石垣市

与儀公園の9条の碑を訪ねて
ようやくたどり着いた時には、辺りは暗くなっていました。ウオーキングをしていた年配の男性に「9条の碑はどこにありますか?」と尋ねてみましたが「ここに9条の碑があるんですか?それは知らなかった、勉強不足だな…」と。暗がりの中歩き回り、やっと見つけた与儀公園の9条の碑

アップ




静岡にも立派な9条の碑があることをご存知ですか?
さきの沖縄タイムズの記事(2015年5月1日)の中では、静岡県藤枝市では、彫刻家の杉村孝さん(77)が有志を募り、「9条の碑」の建設を進めており、完成は8月15日を予定しているとありましたが、戦争は二度と繰り返してはいけないという願いを込めた静岡の「9条の碑(いしぶみ)」は、現在藤枝市瀬戸ノ谷の杉村先生の工房の敷地内に建っています。

1月に研修で訪れた沖縄、そして慰霊の旅をとぎれとぎれになりましたが、ようやく紹介することができました。美しい海と風景の沖縄に皆さんも観光で行かれることがあると思いますが、悲しい歴史があったことを心の片隅に訪れて頂けたらと思います。  


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2018年02月22日

沖縄その5 慰霊の旅 平和祈念公園

ひめゆりの塔の次に平和祈念公園へ
今回は、あまり時間的に余裕がなく急いでまわりましたが、ひめゆりの塔も含め改めて訪れたいと思います。

平和の礎
沖縄の歴史と風土で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべいぇの人々の名前を刻んだ記念碑「平和の礎」を太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設されました。

刻銘碑は、平和の広場を中心にして放射状に円弧の形で広がりをもって配置されています。これらは屏風上に並んでいます。

静岡県出身の戦没者の名前が刻まれていました。静岡の方がこんなに沖縄で亡くなられていたなんて知りませんでした。

メイン遠路は、その中心線が6月23日の「慰霊の日」における日の出の方位に合わせて設定されているのだそうです。

平和の火
沖縄戦最初の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の「誓いの火」から分けて頂いた火を合火し、1991年から灯しつづけた火を1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し灯したもの

園内のバスの運転手さんが、礎から海に出たところに、みんなが飛び込んだ場所があると教えてくれましたがこちらでしょうか…今はとても穏やかな風景ですがとても悲しい歴史の場所ですね。


パンフレット

とても広い園内なので、特に初めて行った時などは、案内して頂きながら巡るバスがおすすめです

霊域

静岡県の慰霊塔には富士山が…
沖縄の道路を走っていると各所にお墓や慰霊碑らしき場所がたくさんあることに気づきます

式典広場 
毎年6月23日の慰霊の日には、ここで慰霊祭が行われるそうです。

沖縄平和祈念堂
沖縄県民はじめ全国民の平和願望、戦没者の追悼の象徴として建設されました。

礎の向こうにある沖縄平和祈念資料館

パンフレット



公園内の地図

平和祈念公園の場所
旧海軍司令部壕、ひめゆりの塔、そして平和祈念公園と沖縄の南部には忘れてはいけない悲しい歴史がたくさんありました。
  


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2018年02月21日

沖縄その4 慰霊の旅 ひめゆりの塔

慰霊の旅として旧海軍司令部豪の次に訪れたのが「ひめゆりの塔」

沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒(15~19歳)222人と教師18人が南風原沖縄陸軍病院に配属されたのが1945年3月23日、負傷兵の看護や水汲み、飯あげ、死体の埋葬に追われ寝る間もなかったようです。5月下旬米軍が迫る中、本島南端部へ向かい6月18日日本軍から突然の「解散命令」に絶望、なんと学徒隊犠牲者123人、教師13人、学徒犠牲者のうち112人は解散命令後に死亡、全体の35%の47人が6月19日に伊原第三外科壕で亡くなりました。解散命令前の死者は11人だったそうです。また捕虜になるくらいなら死を選べという教えに従い持たされていた手榴弾で自決した人もいたそうです。

ひめゆりの塔
ひめゆり学徒隊の最期の地の一つである伊原第三外科壕の上に建てられた慰霊碑です。この壕は沖縄陸軍第三外科勤務の職員やひめゆり学徒隊が南部撤退後に避難した壕で、1945年6月19日朝、米軍の攻撃により多くの生徒や教師が亡くなった場所

奥が終戦の翌年建てられたひめゆりの塔 
手前は、いわまくら碑 学徒隊引率教師であった仲宗根政善先生が戦死した教え子を悼み、第一回ひめゆりの塔慰霊祭(1946年4月7日)で捧げた歌碑

別の場所にいわまくらの歌碑と解説がありました


伊原第三外科豪
1945年6月19日朝、米軍の攻撃によりガマに入っていた約100名中80名が亡くなり、そのうちの42名がひめゆり学徒隊と教師だったそうです。


資料館
ここでは生存者の証言や米軍の記録フィルムを見ることができ、米軍が包囲する中に学徒たちが放り出され学友の死や、周りが死体で埋め尽くされていたこと、きれいな沖縄の海が血に染まっていたことなどが語られていました。

資料館入り口のベンガルヤハズカズラ

中庭の花壇は、1989年資料館開館時にひめゆりの学友たちのみ霊に手向けるために作られたそうです

ひめゆり平和祈念資料館
生き残ったひめゆり学徒隊の方々の壮絶な体験が語られています。是非皆さんにも読んでいただきたいです。いつでも貸し出しいたします。




ガジュマルの樹



【戦争の証言】元ひめゆり学徒「地獄の戦場で人の優しさに生かされた」


週刊女性9月8日号

2015/8/28

◆「もう動けない。殺して」何度も懇願したが、周りの優しさに生かされた

ーー島袋淑子さん(沖縄・那覇市 元ひめゆり学徒隊)


「下弦の月が照らす、とても静かな夜でした。その日の米兵の攻撃はひどくて、一帯にネズミ1匹残さないほどの勢い。1日中逃げ続け、“やっと突破できた”と胸をなで下ろしていたんです。急にパーッと照明弾が降ってきて、右足のひざと、太ももをやられました」

 と、元ひめゆり学徒隊の島袋淑子さん(87)は目を伏せる。

 1945年3月、「いよいよお国のために尽くす時がきました」と告げられ、240名の仲間とともに南風原(はえばる)の陸軍病院へ動員された。「きっと勝ち戦だ。1~2週間安全な病棟で看護をしていれば、帰って来られる」と信じていた。

 ところが、2週間たっても1か月たっても、戦争が終わることはなかった。4月1日の米兵沖縄上陸以降、日本の負傷兵は急増。28日には自然洞窟の中にある糸数分室へ移動命令を受けた。生徒16人で600人ほどの重傷病兵の食事介助や汚物処理、手足切断手術の手伝いから遺体埋葬まで行うという、過酷な状況。

「両手がない人や血と泥まみれの人……ひどい傷を負った兵隊さんがうめきながら運ばれてくるんです。壕(ごう)内は悪臭と断末魔が絶えなかった。ケガ人の数が多すぎて、麻酔が効き始める前に手術を始めるんです。“ギャー! 死んだほうがましだ! 殺せ~殺せ~!”と暴れ叫ぶ兵隊さんを押さえつけて手術をします。初めは光景に耐えられず気持ち悪くなっていたのに、だんだん切断された手足を見るのも平気になっていきました」

 極限状態の中で、だんだんと異常に慣れていく学徒たち。状況が好転することはなく、南部へ撤退するも、新しい壕も爆撃にあい、数名が死んだ。

 6月18日、ついに軍から解散命令が出された。「今日からは自らの判断で行動せよ」と突然、敵前に放り出され絶望の淵に立たされた。

「壕を飛び出したものの、行くあてなんてありません。“捕まったら辱(はずかし)めを受け殺される”と教わっていましたから、“そうなる前に”と自決を選んだ友もいました。断崖に追いやられ海の底に消えた子、砲弾に倒れ苦しみつつ息絶えた子……わずか数日で100人あまりが亡くなりました」

 島袋さんは先輩3人と砲弾の中をさまよった。目の前の兵隊が撃たれて宙を舞った。先輩と「ああ、あの人は即死でいいね」とうらやんだ。火の海を越え、海岸の岩陰へ。そこで右足をやられたのだ。

「血が噴き出て、歩けなくなりました。流れ弾で右腕も負傷した。右目下に重傷を負った先輩と、“お願いですから殺してください”と言って回り、ついに承諾してくれる兵士を見つけました。“2人一緒なら怖くないね”と、先輩と手をつなぎ、目を閉じました」

 どれくらい時間がたっただろうか。恐るおそる目を開けると兵士は手榴弾をかかげたまま2人を見下ろしていた。

「“俺には君たちを殺せないよ。安全なところまで連れていってやる”そう言って兵隊さんは先輩の手を取りました。先には崖があって、私には無理だと諦めていたら、先に行ったはずの先輩が、“あんたひとりを置いていけると思ってるの!”と戻ってきてくれた」

 聳(そび)える崖は住民の男性がおぶって登ってくれたという。

「私はみんなに何度も“もういいです。殺して、置いていって”と言ったんです。でも、誰も私を見捨てませんでした。みんなの優しさのおかげで今、生かされているんです」

 その後も命からがら逃亡を続行。ある日、気づくと先輩と2人、米兵に囲まれていた。いよいよ辱められて殺される、と、半狂乱で抵抗する2人を押さえつけ、米兵は治療をしてくれた。植えつけられた軍国教育によりずっと反発していた2人だったが、米兵は決してひどいことをしなかった。

「地獄のような戦争から、みんなに命を救ってもらったんだから、真実を語り継いでいかなければと思っています」

 島袋さんは、今ではひめゆり平和祈念資料館の館長を務め、戦争を語り継いでいる。

「最近の日本は、いつか来た道を歩まされそうで怖いです。戦争だけは絶対に何があってもダメ。決して国民を守ってはくれません。準備が始まったら止められないから今がいちばん大事。たとえ“貴様ら、来い”と牢に入れられても、私は反対を訴えますよ」

  


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2018年02月20日

沖縄その3 慰霊の旅 旧海軍司令部壕

沖縄と言ったら観光で訪れる人が多いと思いますが、ここにも悲しい歴史があったことを決して忘れてはいけないと思います。この度、研修がきっかけで1月に初めて沖縄を訪れましたが、一番の目的は慰霊の旅だったので空港に降り立ちレンタカーを借りて真っ先に向かったのが旧海軍司令部壕でした。沖縄には米軍が上陸し、住民が暮らしていた場所で激しい地上戦が行われたため軍人も武器を持たない住民も空(空襲)、陸(銃、大砲、火炎消火器)、海(艦砲射撃)から狙われ、沖縄県民の4人に1人が亡くなったともいわれ、太平洋戦争の悲惨さが色濃く残っています。沖縄には爆弾が大嵐のように降り注いだことから「鉄の爆風」ともいわれ米軍は「ありったけの地獄をあつめた」戦場とよんだそうです。海軍司令部壕は、沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕です。

当時、戦陣訓と言う教えがあって「生きて虜囚の(りょしゅう)辱め(はずかしめ)を受けず」つまり捕虜になるくらいなら死を選べという考え方が大切にされていたそうです。米軍の砲弾や銃弾を受けただけでなく自決した人も多かったようです。また日本軍のトップだった牛島司令官は、「最後まで敢闘(かんとう)し悠久の大義に生くべし」、つまり降伏するのではなく、死ぬまで戦い続けろと最後の命令を出して6月23日自決。日本軍としての戦いは終わった。沖縄では6月23日が慰霊の日となっているが、実際には6月23日以降に亡くなった人も多く日本軍が全面降伏したのは9月7日だそうです。

旧海軍司令部壕資料館入り口には
 大田實司令官の写真とともに自決(6/13)前に沖海軍次官に宛てた縄県民の献身的作戦協力について訴えた電文(6/6)がありました


旧海軍司令部壕について


昭和19年(1944年)日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた司令部壕で、当時は450mあったと言われて います。カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵・mが収容されていました。戦後しばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後・A昭和45年(1970年)3月、観光開発事業団によって司令官室を中心に300mが復元されました。


一般財団法人 沖縄観光コンベンションビューロー
旧海軍司令部壕事業所
〒901-0241 沖縄県豊見城市字豊見城236番地
TEL.098-850-4055

壕入口階段
105段、20mほどの階段を降りると、通路が縦横に張りめぐらされた壕内へと続きます。


壕内は、薄暗い通路が無数に張り巡らされ、迷路のようになっている。


幕僚室

司令官室・作戦室に近いこの部屋は幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとが当時のままくっきりと残っています。


司令官室

司令官室の壁面には
『大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり』
という大田司令官の愛唱歌が鮮やかに残されています。



旧海軍司令部壕の司令官であった大田實少将はじめ幹部6名は、米軍の猛攻に昭和20年6月13日夜半、拳銃自決を遂げました。大田少将が海軍次官に宛てた、沖縄県民の献身的作戦協力について訴えた電報が残っています。



ひたすら沖縄県民の事を書いた決別電文 現代文

こちらが原文

大田司令官は、県民の将来を憂い「沖縄県民かく戦えり」の電文を司令官室で書きました。


ここから外へ出ました 旧海軍司令部壕の看板

壕の上には慰霊塔があります


旧海軍司令部壕は那覇市内を見渡せる場所に

首里城方面


訪れてる人はそれほど多くはなかったのですが、外国人の方々が熱心にご覧になっていらっしゃる姿が印象的でした。  


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2018年02月19日

2月17日のおんぱくは、感動冷めやらないようで今後への期待の声も…

2月17日 するが東海道おんぱくNO.24 発見者 塩坂先生と行く「巨大露頭」ツアー当日
静岡駅に集合
塩坂先生と参加者で二台のジャンボタクシーは満席(ドライバー以外18名)でした。先生のアシスタントとして来て下さった堀池さんと途中から参加の斉藤さんを含め総勢22人。今回のツアーは、大人気でキャンセル待ちが続出…というわけで先生にお願いしてキャンセル待ちの方を優先的に5月にほぼ同じ内容で「巨大露頭」ツアーを予定しています。

塩坂邦雄先生
工学博士。特別上級技術者(土木学会・環境)技術士。
東海地震を予知するため、富士川断層の挙動をレーザーで観察中。
2010年には台湾・第四原発の近くで活断層を発見し、目前になっていた営業運転を停止させた。
昨年6月、「糸魚川ー静岡構造線」で、学術上極めて貴重な、地表に現れている巨大な断層(露頭)を発見し「天然記念物級の発見」と評価されている。

塩坂先生の解説で糸静線の断層が走る場所に立ち、地形や痕跡を目で見て確かめ巨大露頭までを辿ります

葵区役所向かいの外堀からスタート
葵区役所向かいの外堀も県庁裏の内堀も2009年8月11日に駿河湾で発生した最大深度6弱の地震で崩れましたが、1854年の安政の地震で崩れた個所と一致 また葵区役所向かいの外堀修復個所から駅方面に向かってかなり下がっていることが分かります

雙葉前の内堀には地震で崩れて石垣はがない部分があることや、石垣がないお堀を右手にして立つと聖母幼稚園手前の横断歩道に向かって道路が下がっていることを確かめました

第6分団のところから外堀に目をやるとお堀の中に段差がありますが、これは最初からあったのではなく地震により高低差が生じたため後から作られたそうです。この段差はお堀に沿って水落方面に曲がると三加番神社の前にもう一か所あります。また第6分団から長谷通り方面を見るとかなり下がっていることが分かります。また第6分団から見えるお堀の石垣の角に明らかな高低差(ズレ)を確認する事が出来ましたね

静高正門に向かって立ち右手方向を見ると、かなり向こうに向かって下がっていることが静高側の石段の数の違いで確認できます
糸静線の断層は葵タワーの下を通って、本日スタートした葵区役所前の外堀→県庁裏の内堀→駿府城公園を通って→静高正門方面へと延びていることが様々な痕跡から分かりました

第二東名上から断層地形を見る
ここではケルンコル、ケルンバットを学びました

鯨が池方面を見ながら、先程ケルンコル、ケルンバットを見た麻機方面と比べると鯨が池方面は約35~40m高いそうです。この高低差は地震によるものではなく安倍川の堆積物により生じたということです

断層の上にたつ猿田川橋
上下に橋を重ね合わせウェブを鋼トラスで構成、内外にケーブルを使ったPC複合トラス橋(日本初)コンクリートの中にもピアノ線が入っているプレキャストコンクリートを使用し、他の橋に比べて非常に頑丈に造られていることを学びました

先ほど第二東名上から眺めた断層地形、ケルンコル、ケルンバットのケルンコル(断層)の上に立ってみる
断層を境に地質が違うことを学びました

出来れば龍爪越えコースでご案内したかったのですが、前日の確認でも所々雪が残り穂積神社から先が通行止めとなっていたので鳥坂を通るコースで西里へ向かい龍爪の露頭へ
露頭へ到着
巨大露頭が発見されるまでは、静岡県内で唯一露頭を見る事が出来た場所です。林道の工事のためたまたま見つかった露頭だそうです。

塩坂先生は空飛ぶ(パラグライダー)地質学者!巨大露頭発見は上空から地形を見る事によって辿り着いたのだそうです。

露頭、分かりますか?露頭の上を掘ると1800℃の熱でこすり合わされて出来た断層粘土が現れます。ここの断層粘土が緑がかっているのは銅の成分だそうです

断層には正断層と逆断層がありますが、ここの断層は上盤が下盤にずり上がった逆断層、露頭を境に龍爪層群(泥岩より硬い火成岩の石英安山岩)と静岡層群(泥岩)の地質の違いが目で見て良く分かりました。

露頭から少し下ったところに鏡肌の岩を見る事が出来ましたが、こちらが正断層(資料参照)

西里のたけのこで昼食

昼食後、プロジェクターを使って塩坂先生のミニ講演
5,000万年前、日本列島がポキッと折れ曲がり、折れ曲がったところが3,000m落ちフォッサマグナが出来た。フォッサマグナの西側が糸静線であること、糸魚川から山梨にかけては天然記念物級の露頭が発見されていたが静岡では、これまで先ほど龍爪で見た露頭が唯一だった。人口わずか4万5千人の糸魚川には立派なフォッサマグナミュージアムがあるが、70万人の静岡にはないので今後ぜひミュージアムを!また伊豆半島はフィリピン海プレートによってユーラシア大陸にぶつかってとすりこまれているが、実はそうではないことや今一番活発な断層は富士川断層で、レーザー光線で観測をしていることなど大変興味深いお話を交えながら、本日のツアーのスタート駿府城公園周辺の痕跡やこれから行く巨大露頭への途中で見られる本来水平のところに圧縮を受けぐにゃーっと曲がった静岡層群などの見どころや(水平な地層で有名なのが九州の青島の鬼の洗濯板)パラグライダーで上空1,500mから地形を見ていたため巨大露頭発見に至った話など伺った

いよいよ巨大露頭へ

山葵田のある沢を登っていきます

巨大露頭に到着!
先ほど見た露頭との大きさの違いに大変びっくりされたり、ワクワクされたり

巨大露頭を前にみなさん終始興奮冷めやらない雰囲気
今はきれいに見えている龍爪層群の火山岩の断面の鏡肌も発見当時は草で覆われて見えなかったそうです

断層粘土に触れてみると指の跡が付くほど柔らかです 粘土の匂いもしました

岩の表面が擦られて刻まれた擦り傷、擦痕やステップなど実際に見る事が出来ました

山葵田の中を下山します

下山後の集合写真

西里にて、塩坂先生と千代田のジャンボタクシー

静岡駅にて解散 
みなさんからは今後ぜひ関連ツアーを!とのご要望もありました。塩坂先生、みなさまがワクワクし、大満足だったとおっしゃる巨大露頭ツアーのご案内をありがとうございました!
  


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2018年02月17日

するがおんぱく NO.24発見者 塩坂先生と行く糸静線「巨大露頭」ツアー本日開催!

するが東海道おんぱく開催日の本日、お陰様で晴天に恵まれ塩坂先生の解説で糸静線を駿府城公園の外堀から巨大露頭まで順に辿ることが出来ました。巨大露頭の巨大さにみなさん大変驚いていらっしゃいました。

塩坂先生の名解説のお蔭で、本日ご参加下さったみなさまからは「素晴らしいツアーをありがとうございました。今後も富士川断層ツアーなどぜひお願いします!」と大変好評でした。またご参加下さった方から
最高の解説者による説明を受けられぜいたくな一日になりましたとコメントを頂きました。



本日は当ツアーにご参加頂きまして、ありがとうございました。9時から17時までの長時間のツアーでしたが、みなさまに喜んで頂けたようで何より嬉しく思います。塩坂先生、みなさまお疲れ様でした!  


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2018年02月16日

明日のするがおんぱく NO.24発見者 塩坂先生と行く糸静線「巨大露頭」のコース再確認へ

明日開催する発見者塩坂先生と行く糸静線「巨大露頭」の龍爪越えのコースが、これまで二回見に行ったのですが雪に阻まれ通行できませんでした。だいぶ暖かくなったので今日最終確認に行って来ましたが、三度目の正直とは行かず…

龍爪街道を順調に進みます

いつも通れなかった穂積神社の約3㎞手前もクリア…
ところがその先所々雪が残っていてこんな感じ

ゆっくり進めば問題ないのですが…

ようやくたどり着いた穂積神社の境内には少し雪が残っていました。気温4度、寒かったです!

参考までに…



ところが穂積神社から先が通行止め
これではどうしようもありませんね

というわけで、今日も鳥坂コースでヤマセミの湯方面から露頭に登ってみると木の枝が垂れ下がっていたリ落石が多く

どけられる枝や石は、どけて来ました。露頭の看板は先日の掃除できれいなままでした。


明日は麻機から龍爪越えをしないで鳥坂コースで向かうことに決定しました。  


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2018年02月13日

するがおんぱく NO.24発見者 塩坂先生と行く糸静線「巨大露頭」の資料確認作業

本日13時半より、2月17日に開催予定のするが東海道おんぱく NO.24発見者 塩坂先生と行く糸静線「巨大露頭」の資料を塩坂先生に確認して頂くと共に行程の最終確認をしました。


2月17日は雨の心配もなさそうです。水にぬれても良い靴(登山靴が理想ですが)でお越しください!

今回、大人気でキャンセル待ちの方がたくさんいらっしゃいます。おんぱくでは2月17日の開催だけですが、また改めて開催できればと思っています。開催予定が決まりましたらお知らせ致します!  


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2018年02月09日

改めて、するがおんぱく NO.24発見者 塩坂先生と行く糸静線「巨大露頭」のコース確認へ

先日2月2日のコース確認では、龍爪山に数日前に降った雪に阻まれ穂積神社約3キロほど手前で断念、今日はお天気も良く、暖かなので再度コース確認へ出かけましたが…やはり同じ辺りで雪が溶けきれず道路がアイスバーン状態、参りました。2月17日までにとけるでしょうか?この状況だと前日の下見も必要かもしれません。温かくなることを祈ります!

またもや断念… 龍爪はかなり寒いのですね


気を取り直し鳥坂方面から西里へ 1時間のロスタイム
急遽下りる予定の場所から龍爪の途中の露頭(巨大露頭が発見される前、県内で唯一見る事のできた露頭)を目指しました。こちらも少し雪が残っていてヒヤヒヤ、何とかクリアして


ようやく露頭に到着!途中の鏡面岩は凍っていました
気になっていた読めないほど汚れた看板の掃除をしました

道路の掃除も…

どうにか読めるほどになりました!



露頭を境に明らかに地質が違うことが目で見ても分かります。お楽しみに!


本番の2月17日ですが、もし龍爪山コースが通れなくても龍爪山途中の露頭は何とかご案内できそうでやれやれです。巨大露頭への道は、駐車場までは問題なく、駐車場から約40分の徒歩コースも2月3日に先生が行かれた時点で雪もなく良好だったそうです。内容の濃いプログラムになっていて時間が足りないくらいです。お楽しみに!  


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